トーク・会話・雑談ー会話は『無関心』と『嫌悪』と『憂鬱』によって、発生しない
「トークの本質は何も考えずに話すこと-それはどうすれば可能になるのか探ってみる」
トークのぐだぐだカクテルその23
当たり前のことですが、会話は『無関心』と『嫌悪』と『憂鬱』によって発生しないということを明確に記録しておきます。
★会話は『無関心』によって発生しない
道路を歩いているとき、他人に声はかけません。他人は自分から見れば互いに風景のようなものに過ぎず、会話する必要性がないからです。つまり、『無関心』対象なのです。たまに早朝に散歩なんかすると、高齢者は挨拶してきますが、それは「無関心」に毛が生えたくらいのもので彼らに地元での散歩をするときに挨拶する習慣があるからにすぎません。この挨拶は儀礼の一種や警戒心を挨拶で打ち消すためのものの一種で、会話ではありません。
また、職場でも人数が多い会社などでは知り合いでもない社員も多く、他者とは『無関心』ですから話す必要はありません。素通りするか会釈するかくらいなもので、相手が話しかけてくることもなく、自分が話しかけることもありません。
通勤で電車やバスに乗る時も多くの人々と同乗しますが、他人である限り、会話をすることはありません。むしろ、話しかけたら不自然です。つまり、『無関心』によって会話は発生しません。
★会話は『嫌悪』によって発生しない
人間は、嫌いな他人に話し掛けることはありません。何のメリットもないだけでなく、話しかけること自体や話し掛けられることで強烈な不快感を感じるからです。
日常生活では、それほど嫌いになる人は生じませんが、学校のクラス内や職場内では人間関係の密度が濃く、嫌いな人間が生じやすい面があります。僕も、職場ではいままでの約15年の会社員生活を振り返ってみると強烈に嫌いな人々が存在します。会っても無視しますし、もし元上司であれば仕方なく会釈してすぐ側を離れます。現在進行形で一緒に働いていれば、大人として、嫌悪感を前面に出すと周囲にもキツサを感じさせてしまうので、内面は隠しますが、必要以上の話しかしません。でもそれだと、嫌い感が出過ぎるので、たまには嫌っていることを包み隠すための雑談をしますが。しかし、これらは、全て会話なんてものではありません。社会人としてバリアを張っているだけです。