僕の『人生観』の到達点

1★人生には、絶対説明できないことがいくつかあります。


現実がどのように設定されているのか考えてみたいと思います。

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まず、宇宙が設定されています。宇宙の外側についてはわかりません。ただ、宇宙というものが設定されているだけです。その宇宙の中に、数え切れない程の銀河系が設定されているようです。その銀河系の一つに太陽を中心とした太陽系があります。

その太陽系の中にも多くの惑星が設定され、その中の一つに生命体が存在する地球があります。地球上では無機物・植物・動物・昆虫・人間などが存在するように設定されています。

そして、人は男女の生殖行為から生まれるように設定されています。地球には酸素、水などが設定されています。人間は酸素をとりこみ二酸化炭素を排出するといった呼吸活動を行います。人間は水分を取らなければならない設定にもなっています。

人間には「思考する脳」が設定されています。『意識』が存在するのです。この『意識』がなければおそらく人間は悩むことすら無いでしょう。『意識』など不要なのかもしれません。『意識』がなければ、人間は単純な構造の「動物の類」に進化できます。

人間はさらに、手・足・目・耳・鼻・口・諸々の内臓といった器官をもって生きる生命体となっています。生きるために睡眠・食事が必須条件として設定されています。そして、寿命が終わると「100%確実な死」に至ります。

人間の致死率は初めから「100%」に設定されています。人間は、寿命がくるまで生きるように設定されていて、与えられた現実の中で死を待つ生命体です。そのように設定されていて、その設定に関しては「そうなっているから」としか説明できません。


僕にとって携帯電話・カメラ・テレビなどというものは、昔から不思議でなりませんでした。携帯電話では遠くにいるはずの相手の声が耳元で聞こえます。カメラは現実の風景を写真として切り取ります。テレビの中では、人々がその閉じ込められた画面世界の中で動いたり話したりしています。

電磁波や光の粒子をどうこうする、という説明は本質的ではありません。携帯電話やカメラ、テレビの現象を可能にする物質が「現実世界に存在するように設定されていたから可能となった」という説明が本質的だと思うのです。

すべては、それらを「可能にできる現象が存在するよう設定できているという前提がなければ不可能」なことばかりだと思うのです。

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2★僕は「現実はまるでRPGのように設定されている」と思います。


安っぽい例えになりますが、人生はゲーム的な要素が充分に認められます。
RPGには設計者がいます。設計者が設定した世界の中で、ゲームの主人公は行動します。

設定された世界の中には、例えば世界を滅ぼそうとしている魔王がいます。魔王の手下であるモンスターが氾濫していて、人々は不安を抱き生活しています。世界を救うため、主人公は行動します。モンスターを倒すことで経験値を得て、主人公は強くなっていきます。


なぜ魔王が存在するのか、なぜモンスターが人々を不安にさせるのか、なぜ主人公は経験値を得ると強くなれるのか?すべては、RPGの設計者が世界をそのように設定したからです。

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人生における現実についても同様です。なぜ人は生まれるのか・なぜ死ぬのか・なぜ眠るのか・なぜ人は食べなければ生きていけないのか。普通こういった問いに対しては、精子卵子が受精卵になってとか、肉体は年齢とともに細胞レベルから衰退していくとか、人間の活動にはエネルギーが必要なので食事が必要となるとか、科学的・理科の授業的な表層的な解答がなされます。

しかし、なぜ精子卵子や受精卵があるのか、なぜ細胞があるのか、なぜ人間の活動にエネルギーが必要なのか、を突き詰めるて考えると「そのようになっているから」としか答えられません。


正答は「現実がそのように設定されているから」です。


光合成できれば働く必要はないのにそのようには現実は設定されていません。
もし、食事して、排泄物が現金であると設定されていたら、食事と排泄の繰り返しで現金収入があり労働なしで生存も可能だったでしょう。しかし、そのような設定ではない。

人生の設定者は誰か、誰にもわかりません。「神」という概念で説明することも一つの解答ではあります。しかし、神という概念で説明する必然性はないです。

僕は、まったく「神」というくだらない概念に納得できない。自分の人生と照らし合わせて、「神」が存在していたら「ボコボコにしてやる」と青年期からずっと思っていました。「現実に不幸設定を個人に与えておきながら、それに対して神を祈らせて、救ってやる」などという傲慢な変態マゾヒズムビッチな概念には馬鹿馬鹿しくて到底共感できない。

僕は、そういった意味では無神論です(神の「不在」を明言する積極的無神論)。

現実は、人生は、ただ「そうなっているから」として受け入れるしかない類のものです。ゲームのキャラクターには設定者(設計者・プログラマー)のことなどわかりません。ゲームのキャラクターが与えられた世界観を受け入れるように、人間も現実世界の世界観を嫌々でも受け入れるしかないのです。

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なぜ人は生きるのか・なぜ死ぬのか・なぜ眠るのか・なぜ食べるのか、設定されている現実に対するこういった疑問は、深く限界まで考え尽くすと説明不可能です。

ただ、「そう設定されているから」としか言い表せない。


3★「共通設定」と「個別設定」と「環境設定」

皆に共通して設定されている共通設定(生まれる・死ぬ・食べる・寝る)というべきものの他に、個別設定というべきものが設定されている。また個別設定を取り巻く個々人ごとに与えられた環境設定というべきものも設定されている。

その個人ごとに与えられた個別設定・環境設定は、誕生その時から始まり気まぐれに変化する。

身長、体重、スタイル、容貌、環境として生まれた時から両親がいない、親が滅茶苦茶だ、家庭環境がおかしい、過酷な貧乏、残酷な犯罪被害に遭う、致命的な病気になる、大切な人が死ぬ、身体欠陥、ある年齢に到達して上手に生きる能力が欠落していくか否か、お金を手に入れる手段をどれだけ頑張っても得られないか否か。

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数え上げてもキリがない程に現実に横たわった様々な個別設定・環境設定、各個人に押し付けられている望んでもいない個別設定・環境設定は、余りにも人それぞれで、なおかつ生き続けていく中でどんどん変化していく。

そして、幸せな人もいれば、平穏な人もいれば、絶望的に不幸な人もいる。永遠に幸せな人もいれば、刹那的に楽しめている人もいれば、永続的に不幸が約束されている人もいる。

個別設定・環境設定は個々人ごとにあまりにも異質です。

恵まれた個別設定・環境設定の人間に、異質な他人の恵まれていない個別設定・環境設定を理解できる訳がないし、理解できなくて当然だ。

「同じ人間なんだから、私はこう頑張ったから、あなたもこう頑張ったらいいよ」という意見はたいがい、根本的な各個人の個別設定・環境設定の違いを理解する想像力が無い人間が、悪意のない善意でする意見に過ぎない。


人間の人生の道程を、最も邪魔するものは、ほとんどの場合、個別設定・環境設定の不運だ。
それは、個人の死にもの狂いの努力などで倒せる『崩壊』ではない。
現実はまるでRPGのように設定されている。
そう、現実は理不尽に設定されている。



4★人はそれぞれ背負っている課題が違うことは意識化しておくべきだ

人個人個人が背負っている課題について。


現実問題として、大勢いる自殺したいというような人間の衝動を抑えるのは結構難しいと思う。

鬱病、その他の精神病、病気以外の確信的な人生観、借金、生活、身内の病気、重度障害。精神科で薬をもらったところで、治る可能性のある病気と治る可能性のない病気もある。薬が効いたところで、薬は脳内を変えてくれるかも知れないが現実は変えれないだろう。

精神医療で、借金は消えないし、家庭内での暴力は消えないし、業務環境は変わらないし、無職の中高年や若者が仕事に簡単に就ける訳でもない。
薬なんかで現実は変わらない。日常に重くのしかかっている課題は消えずにずっと残る。


介護問題。
自己の重病。
障害児問題。
先の見えない長期課題は誰が助けてくれるのか。まあ、正直、誰も助けない。それは、ほとんどお互い様の話だ。

子供がいるから想うけど、重度障害児の親というのは大変だろうなと思う。

もう何年も昔のことだが、僕は小学校入学前の年齢だった上の子供を亡くしている。具体的なことは書かない。僕は上の子供の遺体を見た時、「これなら死んでいてよかった」と思った。顔面・肉体の欠損が酷く、子供本人にとっても生存を続けていく苦痛にはとても耐えられないだろうと感じた。

上の子供が生きていた時に産まれていた下の子供は現在健康なのだけれど、僕が出産に立ち会おうと急いで病院に向かっていた時に、医師から僕だけに電話があって、「奥さんには伝えていませんが、呼吸できずに産まれてきました。仮死状態です。分かりませんが、障害が残る可能性がありますので、伝えておきます」と話を受けた。

大きな病院で体制がとれていたので、体に管を何本か入れた状態で透明な仮死状態出産児専用の設備なのか分からないけれど、そういうところにしばらくいてその後は健康に育った。でも数日だけだったけど、覚悟はした。あの覚悟が永遠に継続していたら、やっぱり現実は凄い過酷だったと思う。僕自身が仕事で繰り返し体を壊してしまったという厄介な現実問題と上の子供を喪った事実と重度障害児の育児を同時に消化していく日常を過ごすことは想像するまでもなく過酷だと思った。妻が背負えるような類の不幸じゃない。


そういえば、社宅に住んでいた時、社宅の上の階のベランダから飛び降り自殺した若い母親がいた。遺体は少しの時間、地面に横たわっていた。子供と夫を残して。何があったのかな、詳細は分からない。




現実はなかなか変えられない。一度、日常に重くのしかかった課題は簡単には解決しない。


課題がある人とない人では歩いている人生が別世界だ。

課題がある人とない人では歩いている人生が別世界だ。

課題がある人とない人では歩いている人生が別世界だ。


課題を背負っていない人間の発言は時に楽観に過ぎて耐え難い。(実際のところ、この記事は真面目に書いているので文章が固いが、僕自身はプライベートや仕事で余計な内面を出すことは一切していないし、結構ふざけた性格をしているので人生を悲観している訳でもなく、面白おかしく暮らしていない訳ではない。今現在という時期に限れば、充実した生活を送っている。)


実際には、他人の課題を見ることは不可能だし、気付くことも難しいが、個人個人に大きな課題の違いがあるということは理解しておくべきだと思う。

病気、障害、介護、子育て、義母同居、虐待、いじめ、暗い性格、コミュ症、仕事、非正規、家族問題、共働き、職場人間関係、貧しさ、課題はいくつもあって、誰もが何かの課題を背負っている。

課題の少ない人もいる、目も当てられない多くの課題を背負って日々を過ごしている人もいる。

これが人生の側面だ。


5★僕の現時点での荒削りな『人生観』の到達点


現実の理不尽な設定によって人間の幸・不幸は簡単に変わってしまう。


僕は、恵まれた設定には感謝をしたい。反対に、過酷な設定は勘弁してほしい。

可能ならば、ささやかな安定した日々と軽い刺激的な日常で柔らかく人生が僕を包んでくれればいい。そんな日々を過ごして人生を天寿までおおらかな気持ちで全うしたい。

これが世に溢れた曖昧な「世界観」や「宇宙観」や「人間の仕組み観」や「生命原理観」や「人生の設定に対する考え方」をごちゃまぜに僕なりに理解して咀嚼した結果としての、僕の現時点での『人生観』の荒削りな到達点。

To;『思春期に、こんな感じのことで人生という現実に深く悩んでいた自分に捧げる記事』
-終了-

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