★池澤夏樹『スティル・ライフ』のシンプルな暮らし

スティル・ライフ」 池澤夏樹(1945生) 中公文庫

僕はこの小説がとても好きです。高校生で出会って以来、繰り返しずっとふとした時に読んでいます。この小説に感想は不要だと思います。好きな文章を抜粋して集めておきたいと思います。


スティル・ライフ (中公文庫)


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この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。


大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。たとえば、星を見るとかして。

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星の話だ。ぼくたちはバーの高い椅子に座っていた。

チェレンコフ光。宇宙から降ってくる微粒子がこの水の原子核とうまく衝突すると、光が出る。それが見えないかと思って」

「そう、なるべく遠くのことを考える」


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ぼくたちは、どちらも自分のことをほとんど話さなかった。あんな一件があった後だというのに、職場のことも出なかった。若い男が二人、ゆっくりと酒を飲んで、身辺から遠い話題ばかり喋った。それだけだった。


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「そんなに何もかも管理はできないよ、染色なんて分子と分子が勝手にくっつくのに、人は少々手を貸しているだけなんだ」
「この場合、人はただの戸籍係さ」
「戸籍係?」
「男と女が勝手にくっつく、その最後の形式的な段階しか戸籍係にはわからないんだ。途中で口をはさんで、誰かと誰かを結ぶなんてことはできない。わかっているのは、男と女を何千人かずつ一緒の社会に入れておくと、その何割かがやがて戸籍係のところへ婚姻届を持ってくるということだけさ。分子と分子の場合も同じだよ。わかるのは最後の結果だけであって、戸籍係が年度内に百枚の婚姻届をそろえたいという野心を持ったところで、どうにもならない」

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「考えないという手もある。色と同じさ。そこは手が届かない領域だと思って、なりゆきに任せる」「人の手が届かない部分があるんだよ」


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寿命が千年ないのに、ぼくは何から手を付けていいかわからなかった。何をすればいいのだろう。

十年先に何をやっているのかを今すぐに決めろというのはずいぶん理不尽な要求だと思って、ぼくは何も決めなかった。社会は早く決めた奴の方を優先するらしかったが、それはしかたのないことだ。

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彼は、時おり、ぼくが探しているもの、長い生涯を投入すべき対象を、もう見つけてしまったという印象を与えた。

大事なのは全体についての真理だ。部分的な真理ならばいつでも手に入る。それでいいのならば、人生で何をするかを決めることだってたやすい。全体を見てから決めようとするから、ぼくのようなふらふら人間が出来上がるのだ。


三月の初めの頃この電車に乗るのが、ここ何年かの習慣みたいになっている。いつも同じ場所に行く。

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音もなく限りなく降ってくる雪を見ているうちに、雪が降ってくるのではないことに気付いた。その知覚は一瞬にしてぼくの意識を捉えた。目の前で何かが輝いたように、ぼくははっとした。雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。



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実に奇妙な引越だった。彼はまず昼間、段ボールの箱にきちんと梱包したパソコンを一台もってタクシーでやってきた。今度は家財を全部持ってきてまたタクシーでやってきた。タクシーで運べるほどの量しかなかったのだ。彼の家財には家具は何一つなく、什器の類もほとんどなく、すべてが大きな登山用リュックと二つの中くらいの鞄に収まっていた。

「これで全部だ」「うん、身辺にものがたまるのは嫌いなんだ」

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部屋の中は、予想していたことだが、がらんとしていた。
隅の方にリュックがおいてあり、段ボールの箱が一つ、鞄が二つ、それにきちんと畳んだシュラフが一つ、それで全部だ。

「自分で運べる荷物だけで暮らしていると、山登りと同じことになる」

「何でも店で売っているからね。自分の手元に置かないで、店という倉庫に預けてあると思えばいい。出庫伝票のかわりにお金を使うだけさ」

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「着るものは安いものを買って、一シーズンでおしまいにする。書類は即座に始末する。本は文庫本で、読んだらやはり始末する。鍋や茶碗の類は最小限。家具は持たない。寝具はシュラフ。そのつもりになれば、そう難しいことじゃないさ」


スライドのプロジェクターを持ってきて電源をつないだ。「見方にちょっとこつがある」「なるべくもの考えない。意味を追ってはいけない。山の形には何の意味もない。意味ではなく形だけ」

「望遠鏡を買って、自分で月やなにかを撮るといいのに」
「それも面白そうだと思う。だけど、それはやりすぎなんだよ

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ぼくはハトに気持を集中した。ハトがひどく単純な生物に見えはじめた。歩行のプログラム、彷徨的な進みかた、障害物に会った時の回避のパターン、食べ物の発見と接近と採餌のルーティーン、最後にその場を放棄して離陸するための食欲の満足度あるいは失望の限界あるいは危険の認知、飛行のプログラム、ホーミング。彼らの毎日はその程度の原理で充分まかなうことができる。

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「緊張と興奮が続いた。劇場の中みたいだ」「でも、厭きるんだよ、そういうのって」

「うん、いわばぼくは透明人間になった。人間関係のネットワークの中に立って、その一つの結び目として機能して、それに見合う報酬を得るということをやめてしまった」

彼は本当にリュックだけを背負って、ふらりとぼくの家を出た。

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「一万年くらい。心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中で併存していた。」
「今は、どちらもない。あるのは中距離だけ。近接作用も遠隔作用もなくて、ただ曖昧な、中途半端な、偽の現実だけ」
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