仕事ができる人間などいない

仕事ができる人間などいない
仕事ができる人間などいない
仕事ができる人間などいない

というか、

仕事をきちんとやらない人間が現実社会に多すぎる。

★適当、嘘つき、責任感なし、動かない、言っても直さないの何でもあり

割合で言ったら、年配者の方が仕事やらない人間、圧倒的に多いよ。自分の職場年配者を見ても定年に向かって、仕事を放棄しがち。そのくせ給料は年功序列で異常に高い。成果主義なんて掛け声だけ、実力主義は言葉だけ。結果を出しても給料は上がらない。 

世代で考えても、ゆとりの方が実際ははるかにマシ。ゆとり世代ってこいつらかって思ったことがない。アホはいつの時代もいるでしょ。若くても、年配でも、同年代でも、そんなのはいつの世代にもいる。

世代全体の問題で言うと、年配者の方が酷い、管理職もズルい馬鹿が多い。責任とる能力ないなら出世を断れ、馬鹿。

自分の仕事能力に自信がないという人達の方がしっかりしている。
現実把握をしようとしているから。
頼んだ仕事を地道にこなしてくれるから。
仕事を丸投げするようなズルさがないから。

何でこんなに料理がうまい飲食店が少ないんだろう。
何でこんなに大したことない料理を出すんだろう。
ずっとやっているのに。

美味しい料理を出す飲食店は思ったより少ない。
値段に見合わない大したことない料理を平気で出す店が多い。
この人たちの意識ってどんだけ低いんだ。
行きたい店が見つからない。
もう幸楽園でいい、マックでいい、吉野家でいい、丸亀製麺でいいってなってしまう。

どうしてつまらないテレビが多いんだろう。
何だ、この展開は。
何だ、このキャストは、もう木村拓哉はやめてくれ。
テレビ局は巨大企業だ。
誰がつまらない番組制作した責任をとるんだ。
誰がつまらないドラマの責任をとるんだ。

実力社会、成果主義なら決裁印押した馬鹿が責任とって『退職金なしで解雇』とか、『年俸99%カット12ヵ月』とかしてきちんと処分されろ。

責任、責任ってうるさい馬鹿は多いけれど、実際には責任をきちんと取る奴なんて、1人も見たことがない。現実には、責任を誰もとっていない。

カメラマンさんとか、ADさんとか、企画さんとか、放映前に気づいてるんだろうな、「駄目だこりゃ、つまんね~よ」って。でも、決裁権者じゃないしなあ。分かっているのにお給料を貰うために、何も言えず一緒に制作してるんだろうな、皆さん。

 

 

 

ところで、出世する人の絶対条件は一つだけです。

 

『出世したい』という意志があるかないかだけです。
この意志が、派閥に属するとか、努力するとか、上に逆らわないとか、媚びるとか、全てに繋がっています。

ちなみに、仕事をきちんとする人間の多くは、『出世したい』という意志を、家族との時間を大切にしたいとか、面倒くさいとか、自分の時間を持っていたいとか、ということで、ある一定の時期になると放棄する。本当に出世に興味がない人々は出世を断る、誘われても断るし、勉強してても試験を受けるときは自分で解答をコントロールして成績を悪く落として「出世を自意識的に断る」。だから、『出世したい』馬鹿が上に行ってしまう。稀に、本当に優秀で責任感を持った人望もある信頼できる方々に出会うのだけれど。

★才能というのは実際あります。

才能について、「二十歳のころ」新潮社という本の中から文章を抜粋します。
――努力には才能ということが大きく関わってくるのよ。才能がないと自分自身が成長しているかも自分で判断できないし、たとえそれが判断できる位の才能があっても、逆に自分自身のレベルが伸びていないことがわかるから、やっぱり途中で嫌になってしまう。だって、いくら練習してもあまりうまくならなかったら、一年くらいは続くかもしれないけれど、十年も続きます?結局、才能があるからこそ、人一倍努力できるのよね。結局、才能があるからこそ、人一倍努力できるのよね。(神谷郁代・ピアニスト)――

この文章は才能というものの本質を的確に表現しているけど、これはピアニストとかサッカー選手とかプロ野球選手とか、歌唄いとか、そういった世界の話。

仕事において、才能を持っている人は現実世界にほとんどいません。仕事社会は、適当、嘘つき、責任感なし、動かない、言っても直さない、の何でもあり。そこにすっと入っていけるのがもしかすると才能。

実際には、私は、仕事上で才能がある、仕事ができるといった人に出会ったことはほとんどありません。ですが、いちおう、私が、出会った数少ない『仕事ができると思った人々』が持っていたものについて記録しておきます。
(「仕事ができる」の中身は、業種で異なると思います)

■性格がいい人、明るいとかじゃなくて、面白いとかじゃなくて、性格がいい人。
■責任感がある人。難しい仕事から逃げない人。(これがない人達は平気で丸投げするし、責任転嫁するし、嘘をつく)
■業務に関する勉強をきちんとしていて、失敗の経験を積んでいて、判断すべきときには誰でも悩むのだけれど、1か2かで選択するのではなく、1から10の中から、知識と経験の根拠を持って、間違いでない方向性の何番かを選択していける人。
■やるべきことを当然のことと理解できていて、淡々と順序に従い、処理していく人。
■外部との折衝、飲み会をきちんと失礼なくこなし、時に親しみを抱かれる域までこなす人。
■無駄な喧嘩をしない人。
■上司や同僚からの異常な仕事丸投げをトークでさらりとうまくかわせる人。
■記憶力がいい人、学生時代の成績と関係なく記憶力がいい人、資料に目を通して何となく把握できてしまうような人。

※※※あと、若手で驚いた後輩がいたのですが、仕事もできたのですが、職場内での内線電話である程度長い用件をメモするときに、私は紙にメモして、電話を切ってからパソコンにいつも打ち込んでいたのですが、電話で用件を聞きながら、電話と同時にパソコン画面に凄いタイピング速度で打ち込んでいって、電話の終了と同時に打ち込みを終えているのを見て「凄いなこの子」って思いました。この若手は、コンビを組んで一年濃密に仕事をしましたが、若手の中では上記の条件を全部備えていたので、今まで仕事をした若手の中で一番に抜群だと思いました。今の時代は、パソコンにかかわる仕事をしている人なら、報告書を書くにも企画書を書くにもタイピングが速い人の方が、仕事をこなす速度は全く違います。※※※

 

★実際は、上記のような仕事ができる人間など、ほとんどいないし、もしいたとしても、その労働に見合う給料をまったく受け取っていません。

現実には、仕事を黙々とか淡淡とか何気なくとかやれば、誰かを不幸に陥れたり、業務を丸投げしたり、嫌な思いをさせたりしなければ、その人は、『きちんと仕事をしている社会人』としての必要条件を充分に満たしています。

また、仕事を10年、20年、30年、40年、50年、という長いスパンで捉えると、仕事ができる人間というのは「長続き」しません。数年とか、何か月とかしか続かない。家族との生活時間のバランスや、子育てや、病気や、体力の衰えや、介護などといったもので、どこかで切断されるものに過ぎない。

仕事ができる年数が長く続いている人は、本人の努力・才能以前に、現実の設定面、環境面で運がいい。その幸運を自覚することは、とても難しいので自覚している人は少ないでしょう。「長続き」という視点で見ると、何十年にも渡り、仕事を続けていく才能は、『仕事をする人』のほうが「仕事ができる人」より上だと思います。

『仕事をする人』はそれだけで充分立派です。私の個人的な感覚でも、何十年という仕事に携わる長期的な期間を考えると、淡々と黙々と継続して『仕事をする人』は「仕事ができる人」に勝るような気がします。年齢的に40歳間近になって労働継続年数もそれなりに増えたからかも知れませんが、最近になって、『仕事をする人』の大切さ・必要充分さを強く感じています。 「仕事ができる人」を目指すような思考は、あまり必要ないんじゃないか、と考えています。

 

 

★最後に現実的なことを書きます。

人間に10mの身長の人はいないし、1トンの人はいない。
肉体労働において100kgを1人で持てても、1000kgを持てる人はいない。パソコンで若手に驚いたけれど、私の10倍の仕事をこなせる訳ではない。

なのに、フル稼働して300万円で働いている人がいるけど、例えば3億とかもらってる人間っておかしいと思う。なんで100倍も差をつけてるんだろ。 そんな仕事の才能を持つ人間は実際一人も存在しない。

スポーツ選手の給料が跳ね上がるのはスポンサー料やCM出演料などがあるからある程度理解できる。でも、日本のサラリーマンで見れば、巨大企業社長レベルでもいいとこ3000万円くらいの価値しかないと思う。

たまにマスコミを賑わしているカルロスゴーンに10億近い金額を受け取るような価値もなければ才能もない。私が学生時代に就職活動をしていた頃から日本に上陸して、マスコミを賑わしていたようなイメージが残っているのだけれど。何なんだ、あいつ?10億とかというのは才能とも価値とも無関係だ。強欲の問題だ。利益配分をただ強欲に歪めているからに過ぎない。

サラリーマンとしての才能や価値に、世間で言われている程の開きなど絶体ない。

その開きは理性のコントロールを失った、利益配分の強欲な歪みに過ぎない。

同時に、その歪みは、とても人間らしいとも思う。

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