友達を求める心と友達にはなりたくない人々

友達を求めるのは不思議な現象だ

 

 

 

赤ちゃんは友達を求めない

1歳時も求めない

2歳頃から少しずつ、同じ年頃の友達とごっこ遊びをするようになる

3歳時を過ぎると保育所・幼稚園で遊ぶようになる

この年頃から、話したり遊んだりする相手を子供は「友達」と呼ぶ。

他に表現するような単語もないので、簡単に「友達」というコトバを口にする。

大人の「友達」とは概念が全く違う。

 

★小学校・中学校・高校・専門学校・大学と人生は違いはあれど進む

 その学校という「箱の中」で クラスという「箱の中」で 部活という「箱の中」で 「箱の中」の「閉鎖空間設定」で人は誰かを友達を呼ぶ。

 

 

 

 一緒に遊ぶ子、おしゃべりを良くする子、気が合う子なんかが「友達」の概念、暇潰しを共有できる子、体験を共有してきた子、嫌いな部分が少ない子 こういったものが「友達」の概念、この時代の友達は、幼少期・青年期をともにしているから大人社会で出会う人々とは決定的に異なるのは間違いない、利害関係も通常はない、思い出のなかの「友達」・過去のなかの「友達」。

大人になると、人それぞれ、無職で暇だったり、病気で暇だったり、ひきこもりで暇だったり、仕事で忙しかったり、家族で忙しかったり、子供で忙しかったりする。

過去の小・中・高・大学などの友達はいずれ、定期的に会う存在ではなくなる。

年に一度の新年会とか正月とかお盆時期とかに飲み会で会う程度だったり、バイクのツーリングとか釣りとかの共通の趣味で頻繁に遊ぶ人も中にはいるのだろうけれど。

逆にこの時代の過去友達とよく遊ぶ人は、現在の会社同僚とかそういった仲間と遊ぶ時間は削られる。独身だとバランスよく遊べるかもしれないが、結婚や子供の誕生や外国だの遠隔地への転勤などでバランスは崩れる。

 

★大人になっても、友達を求める心の不思議は存在する

大人になってからの「箱の中」は職場だったり、子供のママ友だったり、違った種類の「箱環境」になる。

大人の共有体験ってのも、仕事では存在するとしても、それ以外の部分では、小学校とか中学校とか、高校とかの共有体験・共有時間に濃度では劣る。 だから、雑談とか、あいさつとか、井戸端会議とか 会話の優劣が、どうしても上位条件に入っちゃうのは仕方ない(会話は重要な共有時間の記憶だから) 。とにもかくにも、共有体験があって、嫌いな部分が少ない子が『付き合いが生れる人=友達』ってなる優先順位が高い。

 

相手の嫌いな部分は、成長とともに具体化している、皆好き嫌いが完成している

 顔が受け付けない、容姿スタイルに拒否反応あり、性格・気性に難あり、つまらないとか、暗いとかもマイナス要因なのかな、精神病も(偏見があれば)、受け付けない部分があれば「友達」になることはない、対象外になる。一般的なブサイクやブスを拒否するって意味じゃなくて、自分個人にとっての拒否反応があるかどうか、タイプの問題、タイプに拒否反応があれば、通常余程の相手の良さを目にしない限り近づかない。

不思議と友達を求める気持ちがありながらも

友達になりたくない奴らもそれなりに多いんだよな~

 

 

 

★こんな奴らとは友達になりたくない、知り合いにすらなりなくない

ずるい奴

性格の悪い奴

盗む奴とかの害を及ぼす悪意ある奴

精神的に絡んでくるサイコパス

こんな奴らは論外です

大人になるとこの手の人格存在が目立つようになる

 

久しぶりに下衆なお店に買い物に行ったとき、痛烈に思ったんだけど、ここに買い物に来てる連中の、容貌とか行動の振る舞いとか聞きたくなくても聞こえてくる会話の内容とか意味不明な怒声とかって相当痛い、想像以上に痛い

思ったんだけど、いろいろ友達について考えることがあるけれど こんな奴らとは絶対に頼まれても友達になりたくない

 

 

 ★友達になりたくない奴らって結構存在する

嫌いな人間の種類が多いことを、最近自覚してる

嫌いなタイプの人間とまで友達になるなんて馬鹿げてる

好きなタイプの人間の中だけから「友達」って探すんだなあ、当たり前かっ!

 

あまり、意識したことなかった・・

自分がかかわるすべての人の中から「友達」を探すって考え方をしてたけど、違う

嫌いなタイプとは断絶していて一向に構わないんだ

仕事上でのやりとりとか挨拶とかで表面を取り繕っていればそれで構わない

 

★あくまでも、好きなタイプから「友達」を探すんだ

 好きなタイプの人間の中だけから「友達」を探すのは当たり前!

そして、好きなタイプの「内面を持つ人」に出会うのは、難しい

自分の許容範囲の幅にも問題はあるのだろうし、関係性を深めていける会話上手かどうかにも問題はあるのだろう

深く人と付き合う人だと、そこら辺で自分の中の壁に引っ掛かるから、付き合いは「深く狭く」になりがち

浅く付き合う人で内面にこだわらない人だと、付き合いは「広く浅く」になるのかな

個人的には社会人として「しかたなく広く、うっすらと浅く」状態にシフトしています

家族がいて子供もいるからだけど、他人との共有時間が仕事以外で相当薄い

 

まあ、こういう時期もあってよしかな、と思っています

 

しかし、

「友達100人できるかな?」なんて歌は糞喰らえ  だと本気で思っている

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